急性期看護師が限界になった話|辞めたいと思い続けた9年半の記録


今日も乗り越えた。
でも、明日また行けるかな…
夜勤明けに布団に入っても、スマホを握ったまま眠れない日がありました。
病院から電話がかかってくるんじゃないかと、ずっとビクビクしながら。
急性期で9年半働いた私が、精神的に限界を感じた話をします。
ゆる「私もそうだった」と感じる人に届いたら嬉しいです。
脳神経外科という現場のリアル

私が最初に配属されたのは、脳神経外科・神経内科病棟でした。
脳や脊髄に関わる病気・手術を扱う科なので、麻痺や意識障害が残る患者さんが多くいます。
食事・移動・排泄、日常生活のあらゆる場面で介助が必要な方が多く、身体的な負担はとても大きかった。
重い患者さんの体位変換や移乗を毎日繰り返していたら、私自身がヘルニアになりました。
腰の痛みを抱えながら、それでも介助をし続けていた時期があります。

頚椎や腰椎の手術後は、ドレーンや膀胱留置カテーテルが入った状態で、絶対安静・ログロール管理が必要な患者さんもたくさんいます。
でも術後せん妄になってしまうと、そんな状況でもベッドから立ち上がろうとする。
チューブを引っ張りながら歩こうとする。
ゆる頭では「仕方ない」とわかっていても、その場面を見るたびに心臓が縮む思いでした。

失語症の患者さんとの関わりも、精神的にしんどかった部分のひとつです。
言葉が出てこない、伝わらない、もどかしさが表情やしぐさからにじみ出ている。
その気持ちに寄り添いたいと思いながらも、こちらもうまくコミュニケーションが取れなくて、どう関わればいいか迷う日が続きました。
自由に動けない、話せないというストレスが、私たちに向けられることもありました。
怒鳴られたり、手を出されそうになったり。
それが患者さんの「辛さの表現」だとわかっていても、毎日続くと心がすり減っていく。
ゆる「私が何かしたわけじゃない」とわかっていても、帰り道に泣いたことが何度もありました。

それでも、脳神経外科にはやりがいがありました。
リハビリを続けて、少しずつ機能が回復していく患者さんを何人も見てきました。
最初は全介助だったのに、退院時には自分で歩けるようになった方。
言葉が出なかったのに、少しずつ話せるようになった方。
「よくなっていく姿を近くで見られる」という喜びは、本物でした。
ゆるしんどいことだらけの現場で、それでも続けられたのは、このやりがいがあったからだと思っています。
明らかに人が足りない、あの夜勤の感覚

「もう無理かもしれない」と初めて思ったのは、夜勤中でした。
同じ夜勤帯に抱えていた患者さんたちを思い出すと、今でも胃が痛くなります。
- 術後せん妄でドレーンを引っ張りながら立ち上がろうとする患者さん
- 離床センサーが鳴ったら即座に走らないと転倒する認知症の患者さん
- スパイナルドレナージで数センチ単位の厳密な管理が必要な患者さん
- 容態が急変しそうで目が離せない患者さん
- ナースコールが頻回で、トイレ介助が必要な患者さん
これが、同時進行で起きていました。
ゆる「明らかに人が足りない」という感覚、わかりますか?
何かが起きそうな患者さんが複数いて、どこへ行けばいいかわからない。
Aさんのところへ行けばBさんが転ぶかもしれない。
廊下を走りながら、頭の中でずっと計算し続けていました。
それでも朝まで乗り越えた。
でも終わりではありませんでした。
夜勤明けの粗探しと、帰宅後もビクビクしていた日々

夜勤明け、輸液速度にミスがありました。
重大なインシデントではなかったけれど、その日の日勤には怖い先輩がいました。
夜勤明けで帰るまでの間、その他にも何度も何度も粗探しをされました。
言い方が強い。
いびるような言葉。

巡回で何見てきたの?
あれもできてなかったんだけど。
信じられないわ。
疲弊しきった状態で繰り返し言われる。
やっと帰れると思っても、家に着いてからも怖かった。
スマホを手放せない。
「病院から電話がかかってくるんじゃないか」とずっと緊張したまま、ぼんやりと夕方まで過ごすような日がありました。
休んでいるのに、全然休めていない。
ゆるあの感覚は、今思い出しても体が強張ります。
病棟が変わったら、雰囲気も責任の重さも別世界だった

急性期の中でも、病棟によって空気は全然違います。
最初にいた病棟は、「みんなで助け合おう」という雰囲気がありました。
しんどい夜勤も、お互いフォローし合いながら乗り越えていた。
チームでやっている感覚があった。
でも病棟異動でそれが一変しました。
移動先は、個人プレーの文化でした。
自分の担当患者は自分で完結させる。
他のスタッフが動いているからといって、助けを求めるのは少し空気が違う。
ゆる最初は戸惑いながら、その空気に合わせようとしていました。
そして何より重くのしかかったのが、プライマリ制度の責任でした。
担当患者さんの退院支援は、自分で動かしていかなければなりません。
でも急性期の忙しさの中で、なかなか進められない日もある。
そういうとき、

なんで退院支援が進んでないの?
と責められる。
忙しくて手が回らないのに、それでも「あなたの患者でしょう」という圧がかかってくる。
ゆるチームで助け合えていた頃は「しんどいけど、一人じゃないな」と思えていました。
でもこの頃から、じわじわと「一人で全部背負っている」という感覚が強くなっていきました。
コロナ病棟になって、心が折れた

脳神経外科から異動を経て数年後、私の病棟が急にコロナ専従病棟に変わりました。
変わってすぐの頃が、特につらかった。

「今日は違う病棟に応援に行って」
「明日は救命センターで重症患者を見て」
「今日はコロナ病棟で」
「外来でコロナ患者の対応をして」
毎日状況が変わり、働く場所が変わり、求められることが変わる。
感染するかもしれないという恐怖を抱えながら、それでも1日中防護服を着て患者さんのそばにいる。
慣れない環境で、慣れない業務で、緊張が解けない日々でした。
ゆる「私たちの病棟、いいように使われているだけじゃないか」という気持ちが、ふとよぎりました。
仕方ないとはわかっている。
病院全体が大変だったのもわかっている。
でも、積み重なった疲弊の中で、病院への信頼が少しずつ薄れていくのを感じていました。
「やっと辞める理由ができた」という感覚

結婚が決まり、転居することになりました。
客観的には「結婚による退職」です。
ゆるでも正直に言うと、「やっと辞める理由ができた」という感覚のほうが強かったです。
ずっと辞めたいと思っていました。
でも「辞めてどうするの」「また働けるの」「せっかくここまで続けたのに」という声が頭の中でぐるぐるして、一歩が踏み出せなかったんです。
転居という理由があったから、ようやく踏み切れました。
あのとき辞めて、よかったと思っています。
辞めて数年が経った今、思うこと
辞めてから、育児をしながらブランクの時間が続いています。
あの9年半を振り返ると、よく続けられたなと思います。
しんどかったのは本当。
限界だったのも本当。
でも、あの現場で積み上げてきたものも、確かにある。
患者さんのそばで必死に考えて動いてきた時間は、自分の中にちゃんと残っています。
「やっと辞める理由ができた」という感覚で辞めたあの選択を、今も後悔していません。
ゆるそして今、また少しずつ「働きたいな」という気持ちが出てきています。
同じ経験を持つ方へ

急性期を経てブランク中の方、育児をしながら復帰を考え始めている方に、一つだけ伝えたいことがあります。
あの経験は、次の働き方を選ぶための判断基準になります。
「夜勤明けにビクビクする職場には戻りたくない」
「チームで助け合える雰囲気の職場がいい」
「子どもの急病時に休みやすい場所がいい」
あの9年半で感じた「嫌だったこと」「しんどかったこと」は、次に選ぶ職場の条件として使っていい。
前回の経験から学んだことを、今度の復帰で活かせます。
復帰を考え始めているなら
まだ転職を決めていなくて大丈夫です。
「どんな職場があるか見てみたい」「自分の条件で探せるか確認したい」という段階から、転職サイトは使えます。
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育児中・ブランクあり・急性期以外を希望、という状況でも対応してもらえます。
ゆる気持ちが動いているうちに、一歩だけ踏み出してみてください。
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